2017-12-05 第195回国会 参議院 文教科学委員会 第2号
随分長い歴史を持っておりまして、その一番の原点は、一八七二年、これ明治五年になりますんですが、長崎にアメリカから宣教師がやってまいりまして、聖書を教科書として英語教育をするという、そういう夜間英語塾として始まった学校でございます。
随分長い歴史を持っておりまして、その一番の原点は、一八七二年、これ明治五年になりますんですが、長崎にアメリカから宣教師がやってまいりまして、聖書を教科書として英語教育をするという、そういう夜間英語塾として始まった学校でございます。
この団体がなぜできたかといいますと、この写真にあるとおり、ロイ神父さん、このロイさんという神父さんは宣教師だったんですが、日本に宣教に来てからアルコール中毒、アルコール依存症になり、薬物依存症になり、一旦本国に帰って治療プログラムを受けて、日本にまた宣教に戻ってきました。
大体、信長のときのいわゆる宣教師たちも日本人のそういう正直さ、あるいは特に明治以降になって外交官の奥様方がいろいろと本を書いておられますけれども、そこでそんなことはもう幾つも幾つも例が出てきているわけですよ。 だけれども、そのお金が出てきているということですけど、それに安心してしまったら駄目だと思うんです。
江戸時代の教育なんかを本で読んでみますと、子供が非常に生き生きとしている、大事に育てられているということを外国人宣教師の方々なんかが本国に報告しているのを見ると、非常に近代以降の時代背景というものが大きくいじめとか又は体罰にかかわってきているんではないか。 ちょっと大局的になりますけれども、その中で、戦後、もう大臣も御存じのように、冷戦というものがあって、スプートニク・ショックがありました。
実は、一八四〇年から一八五〇年代に、イギリスからは、宣教師でしかも医師であるバーナード・ジャン・ベッテルハイムという方が沖縄にやってまいります。
恐らく宣教師的な使命感と隣り合わせの文化的なものだと思っております。 もう一つは、やはり北欧が、中軸国家であるかどうかは別にして、国際的に存在感を示すために援助を掲げるということが最も有効だというコンセンサスが国内にあるという点だと思います。ほかのカードではなかなか小さな国なので勝負できないけれども、援助だったら勝負できるということだと。要するに、一点集中型だということですね。
実は、江戸時代から大正にかけて、宣教師でありますとか通商団とか、さまざま学者さんが日本に来て、日本の印象をつづった「逝きし世の面影」という本が渡辺京二さんという人の本でありましたけれども、当時の日本というのは、本当に自然が横溢して、豊かで、これほど自然と人間が共生をしている社会はないとみんなが驚くぐらいやはり自然と共生をしていた。
ことしの初めに私は、「逝きし世の面影」という渡辺京二さんの本、こんなに厚いんですけれども文庫本で半分ぐらい読んだんですけれども、まさに、江戸時代の末期から明治にかけて日本にやってきた宣教師さんとか科学者とか航海で船乗りさんとか、そういう人たちが日本に来て、日本人というのはすごいということを残した書物です。
私はヨシコ・モーリと申しまして、日系二世で、マリアの宣教者フランシスコ修道会の宣教師をしております。所属はNPO・SABJAです。日本には一九八六年から暮らしており、私の中にはブラジルとその文化が生きていると同時に、両親が懐かしみ愛した日本も生きています。 祖国を離れた両親は、懐かしさゆえ、日本の誇らしいこと、美しいことだけを思い出し、話していたのだと思います。
私は、前にもこの外務委員会で、欧米の宣教師が、南京大虐殺があったと言われるその直後の、あの新年に、中国の子供たちが爆竹を日本兵からもらって喜んでいる姿があった、こういうことを申し上げました。それは大虐殺があった直後にはあり得ない風景だったと。それは、宣教師が自分の家族にあてた手紙の中に、今、南京の新年では、南京の子供たちが日本軍兵士から爆竹をもらって遊んでいるとか書いてあるんですよ。
ですから、もう一度やはり、私たち、所得の格差はあったけれども、先ほどおっしゃったラフカディオ・ハーンにしろ、アインシュタインにしろ、あるいはまた信長の時代に日本に来た宣教師が本国に送った手紙にしろ、日本人の持っている心の美しさというか、総理の言葉をかりれば規範意識ですね、これをやはりしっかり取り戻さないとグローバリズムの格差社会は乗り切っていけないというふうに思います。
これは、当時の宣教師なんかが頑張ってやった。私、何回も外務委員会で質問しております。この問題に関して、「ドキュメンツ・オブ・ザ・ナンキン・セーフティー・ゾーン」として、国民政府国際問題研究所によって、一九三九年、戦前に上海から出版されている。
しかし、先ほど来お示しになったこの調査を見て、その国においてすら日本以上に今先生が御指摘になったことを強く意識しているということを突き付けられると、我々はやっぱりかつて、宗教の意識が非常に低いと先生、難しいとおっしゃったけれども、かつて宣教師が信長の時代に日本へ来たときに、どの国の国民よりも日本人は礼儀正しく、そして人に優しく、町は清潔であるという手紙を送っておりますよね、本国に。
前にも私はさまざまな委員会で質問しているのは、当時の南京に宣教師がおびただしく、おびただしくといってもせいぜい二十人ぐらいですかね、いて、彼らが、日本軍が迫ってくる中で南京を放棄しないで、彼らは神に仕える者として南京の無辜の命を守ろうということで安全区を設定した。 彼らの表現は、私は十万人というふうな数字がどこかであったような気がするんですが、彼らがエール大学の神学校図書館に文書を持っている。
さっき言ったレトリックから考えて、南京大虐殺があったなら無辜の市民を宣教師が守ったという理屈は成り立たないんですよ。宣教師が無辜の市民を守ったのはこれは事実でしょう、恐らく。守ったというのは。彼らのエール大学神学校図書館の文書でも。であれば、南京大虐殺は否定されるんですよ。両方入れた映画がオンエアされているというのは、私に言わせれば信じられない話ですよ、それは。四十五万人いたというんだから。
あるいは、私たちが今住んでいる、外国人の表現で言えば、木と紙と土の家に住んでいるということを宣教師は書き送っておりますが、そういう建築というものは、どういう気候、どういう住まいの中からそういうものが出てきたのか。そして、その流れの中である現在というものを今に生きている子供たちに理解させていく、そういう学習要領をつくっていくということになると思います。
もう半世紀近くにわたってアフリカを中心とするフィールドワークにずっと携わってこられた方でありますけれども、アフリカの奥地で、ほとんどその部族以外に接したことのない部族がまだいるということなんですけれども、その部族にもだんだん衛生観念だとかそれから医療だとかが宣教師などの尽力を通じて普及してきて、非常に乳幼児の死亡率が下がってきたというんですね。
それはNHKの取材陣が発見したわけですけれども、日本にやってきた宣教師たちが本国へ手紙を出しているんですね。その手紙が何と書いてあるかというと、日本人は倫理観が高いからとても植民地にできないと本国へ手紙を出しているんですよ。それをNHKの取材陣が発見して我々に知らせてくれた。
ただ、これもよく見ると、横道にそれますが、私が前に言ったように、あそこに二十人の宣教師がいたんですよ。例のエール大学の神学校の図書館にあるという。彼らは、我々は無辜の南京市民の命を守ったと。たしか十万とかという数字ですよ、みんな逃げちゃっていてそれぐらいしかいなかったんですよ。守ったと胸を張って言っているんです。守ったなら大虐殺はなかったんですよ。大虐殺があったんだったら守れなかったんですよ。
私が先般総理大臣に質問したのは、この今の、日本で言う愛というのは、むしろキリスト教的愛、一五四九年にポルトガルの宣教師が鹿児島へ着いた、以来のあの言葉ではないかなと。そのときはアモールという言葉でございました。それは、イスラムのジハードとはやはりちょっと趣が違うのではないかと思います。 怖い言葉とおっしゃいました。
かつ、キリスト教の宣教師ですから、最も大切な言葉というのは、大事な言葉というのは、まさにキリストの愛を伝えることですよね。そのときに、では彼らは愛をどう伝えたか。これは、ポルトガル語ではアモールですよね。アモールを、そのときに日本語に、大切と訳した。これは、動詞はアマールなんですね。アマールは、大切に思うと訳した。すなわち、大切で全然いいわけです。